トニ・ブランコさんは、中日ドラゴンズをはじめ、横浜DeNAベイスターズ、オリックス・バッファローズなど日本のプロ野球界で大活躍された選手です。
現地時間の2025年4月8日に故郷のドミニカ共和国のナイトクラブで突然屋根が崩落した事故に巻き込まれ44歳という若さでお亡くなりになりました。
突然の訃報で日本でも大きなショックを受けています。
ドミニカ共和国に戻られてから、どのように過ごされていたのでしょうか。
今回はトニブランコの現在として、引退後の故郷での生活について調査していきたいと思います。
トニブランコの現在

引退後の活動
トニブランコさんは、2016年に故郷のドミニカ共和国に帰国しました。
帰国後は、物流関係の事業を手掛けていたようですね。
経営者として、日本で生活していたときの経験がご自身の支えになっているとインタビューに応じていました。
「日本ではとにかく、真面目に生きること、正しい生活を送ることが大切だと学びました。日本に行く前では、あまりそのように考えることはなかったです(笑)。日々の練習にはしっかりと取り組み、物事の時間を守るなどの規律の大切さを、いつも身近にいて一緒に行動していた通訳さんからもよく言われました。それら日本時代の経験が現在、会社を経営する上でも自分の支えになっています」
https://cocokara-next.com/athlete_celeb/tony-blanco-special-feelings-for-japan-01/2/

このインタビュー記事は、2024年6月30日に投稿されたものなので、少なくとも2024年6月時点では、物流会社の経営者であったことがわかりました。
息子も野球選手
トニ・ブランコさんの息子であるトニ・ブランコ・ジュニア選手も野球の道に進みました。
- 生年月日:2005年5月14日
- 年齢:19歳
- 身長:約198cm
- 体重:約104kg
2022年1月にピッツバーグ・パイレーツと契約してプロ入りしています。


契約金は約90万ドル。
外野手として活躍が期待されています。
- 18 桑田真澄(2007年)
- 3 岩村明憲(2010年)
- 41 高橋尚成(2012年)
- 32 筒香嘉智 (2021-2022年)
トニブランコが来日できなかった理由は?


ビザ発給できず来日できなかった
独立リーグ・北海道フロンティアリーグの士別サムライブレイズは18日、球団の公式ホームページで元中日のトニ・ブランコ監督(41)との契約を解除したと発表した。
中日スポーツ
発表によると、球団は昨年12月にブランコさんの初代監督就任を公表。ただブランコさん側から「個人的な事情から入国ビザは発給できない」との連絡を受け、ビザ発給の目処が立たないため契約破棄に至ったという。
トニブランコさんは、北海道の独立リーグ・士別サムライブレイズの初代監督に就任する予定でしたが、
ビザ発給できなかった理由は?
トニブランコさんがビザ発給を受けることができなかった理由は、
ただ、ビザ発給を申請しているので、監督個人的な事情で辞退した、というわけではなさそうですね。
そこで、ビザ発給できない事例を調べてみました。
大きく分けると、5つ理由がありました。
- 書類不備
- 虚偽の申請内容
- 経済状況
- 素行
- 雇用企業
個人的な事情で発給できなかったとのことなので、この理由のうち考えられる問題は、
が考えられそうですね。
素行というのは、逮捕歴などがないかということのようです。



日本にいたときにはニュースにもなっていなかったので、あるとしたらドミニカに戻ってからのことでしょうか…
経済状況や雇用企業の観点でみると、もしかすると経営している会社の運用に問題があったのかもしれませんね…
訃報


2025年4月8日、ドミニカ共和国のナイトクラブで屋根が崩落する事故が発生。
人気メレンゲ歌手ルビー・ペレスさんのコンサートが行われており、約300人が中にいたとみられる中、突然屋根が崩落し、79人が死亡するという悲劇が起きました。
ブランコさんもこの事故に巻き込まれ、瓦礫の中から救出されましたが、病院で亡くなりました。
44歳という若さでの突然の訃報に、日本を含む野球界に大きな衝撃が走りました。
トニブランコNPBでの通算成績


トニ・ブランコさんのNPB通算8年間の記録は以下の通りです。
- 通算750試合出場
- 打率.272
- 181本塁打
- 542打点
輝かしいタイトル成績も残しました。
- 首位打者:1回(2013年)
- 本塁打王:1回(2009年)
- 打点王:2回(2009年、2013年)
- ベストナイン:3回(一塁手部門:2009年、2012年、2013年)
まとめ
今回は、元日本のプロ野球選手トニブランコさんの引退後から現在までの生活について、調査していきました。
帰国してからは、物流関係の事業の経営者として活躍されていたのですね。
日本で生活していた頃の経験が経営の支えになっていたとのことでした。
日本の独立リーグチームへの監督就任が決まっていたものの、個人的な理由でビザ発給が受けられず白紙の状態になっていたのが悔やまれますね。
もし日本に来ていたら、今回の事故には巻き込まれなかったのか…と考えてしまいました。
トニブランコさん、犠牲になられた方々の御冥福を心よりお祈り申し上げます。
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